『レスキュースペシャリティ 本来の目的』

 

 

  一度だけ溺者の救助に向かったことがある。それは 1ダイブ終えて休憩していた時に起きた。

  東伊豆は地形上、海水浴に適した砂浜が少ない。ダイビングポイントの多くは漁港であり、夏休みともなれば 帰省や旅館に泊まった家族連れが海水浴にやって来る。

  ふと沖を見ると 赤ら顔の男が、空気が足らずに潰れかけたバナナボートに乗っていた。嫌な予感がしたので、暫く目を離さずにいた。

  ボートダイビングを終えた船が港に戻って来る。ビーチマスターが注意を促したので、港内外にいた海水浴客は移動を始めた。その時、件の男が海に落ちて もがき始めた。

  咄嗟に3点セットを手に 防波堤に向かって走った。船着場の途中でメガネを投げ捨て、先端から 走る勢いに任せて海に飛び込んだ。顔が水面に出るまでの僅かな間に片方のフィンを履き、溺者を目視確認しながら、もう片方のフィンを履いた。

    * 当時のフィンは、フルフットタイプのロンディン X-rubber。陸に居る時は 常に踵を折り返しておくので、いつでも直ぐ履くことが出来る。

  泳ぎながらマスクを着け終えると 両腕をも使って泳ぐ、但し 8割の力で。これから溺者との『対決』がある。到達時に息が上がっていては溺者に対応しきれずに負けてしまう。この間も 溺者からは決して目を離さない。

  溺者に向かって泳いでいる時に 「何で俺が助けに行かなければならないのだ」と、心の中で弱音を吐いた。あまりの恐怖に泣きたい気持ちだった。溺者との『対決』が怖い。

 

 

  OW、ADと進んだダイバーの多くが レスキュースペシャリティを受講する。私が受けた講習は、他とは明らかに違っていた。とても厳しい。そして 必ず『事故』が起きる。事故と言うと聞こえは悪いが、要は実践さながらに行われるために起きる諸々。バディを単独曳航するのは勿論のこと、女性であろうと 同じ位の体格の要救助者役を肩に担がせて陸まで移動させたり、ボートに引き上げさせたりする。その際 要救助者役はそれに成り切り、体の力を完全に抜いているので、救助者役の僅かな不注意から 水を飲まされたり、頭や体のあちこちをぶつけられたりとか。『水面における溺者確保』では 要救助者(溺者)役が救助者役に本気で迫って来るので、実際 救助者が沈められて溺れてしまったりもする。

  マウス・トゥ・マウスもやる、女性陣の拒否権行使により 同性間で行うことになるが。男同士で‥、これは立派な『事故』だ。

    * ウエットスーツを着ている要救助者の肺は、容易には膨らまない。それと 送り込まれる空気により 胃が風船の様に膨らむのには驚いた。

 

  『溺者確保』は難しい。「抱き着かれそうになったら溺者を持ち上げ、その反動で自身が沈んで逃げろ」なんて簡単に言うが、溺者に蹴られる可能性は極めて高く、一発ヒットすれば致命的だ。同じく「足の裏で押し返せ」も、フィンを履いていては そう都合良く出来るものではない。だから 「溺者が大人しくなる(気絶する)まで間合いを保ち、手を出すな」なんてことが、ダイバーの間で実しやかに囁かれるのだろう。

 

  夏ともなれば 各所で水難事故が発生し、その内 何件かでは助けに向かった者が犠牲となる。「溺れる者は藁をも掴む」、いや「人を踏み台にしてでも助かろうとする」、それは至極当然のこと。救助者が 遥かに上回る技能・装備を有していたとしても、必死の溺者に対して 常に優位に振舞える程、『溺者確保』を含め レスキューは甘くない。実際 講習において その塩辛さを、イヤというほど味わった。

 

  講師は、講習の最後を『レスキューするダイバーにも されるダイバーにもならない様に』と締め括った。これまでに受けた講習(OW・AD)内容を遵守することが、即ち レスキューなのだ。実践さながらのレスキュースペシャリティでなければ、この言葉を実感することは出来ない。OW・AD講習を終え、ある程度ファンダイブを重ねる内に生じる「気の緩みや慣れ、驕り」等を戒める意味で、この時期のレスキュースペシャリティには とても意義があると思う。

  そして 実践的なレスキュースペシャリティを実施するためには、主催者側に受講者以上の努力、労力が求められる。計画、準備、そして安全管理を担う相応の人員配置 等、何とも骨の折れる講習だ。 

    * 頭数が揃えば誰でも良い という訳にはいかない。同等の講習を修得し、チーフインストラクターの下 管理・統率されたスタッフが揃わなければ、先の『溺者確保』も笑い事では済まなくなる。だが そんなスタッフを育てる環境は無いに等しいので、この様なレスキュースペシャリティが実施されることは 極めて稀である。

 

 

  件の溺者に接近してみると、幸いにも 思いのほか慌てていなかったので 事はすんなりと運んだ。ある意味 ぶっつけ本番ではあったが、一連の行動を滞りなく出来る様に仕上げてくれた先輩ダイバー達に感謝。だが 「二度とレスキューなどしたくない」と今でも思う。あの厳しかったレスキュースペシャリティは、今も尚 その役割(本来の目的)を十二分に果たしている。

 

 

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