『Mrs.ホンビノスの潜水日誌、バディロープ』

 

 

  お台場に潜るきっかけは、ホンビノス貝(外来種)の生態を研究する大学院生(初心者ダイバー)の安全確保、いわゆる守り役でした。彼女に 「何故お台場のホンビノス貝を研究対象に選んだのか」尋ねたところ、「食用としての将来性と 研究にかかる移動時間と経費の節減」とのこと。しかし この選択が、大学院生『Mrs.ホンビノス』にとっての試練の始まりとなった。それを幾つか紹介します。

 

(春)

  日本にどれ程のダイバーが居ようと、ファーストダイブがお台場 若しくはそれに類する大都市近隣水域 というのは、おそらくMrs.ホンビノスぐらいだろう。それを祝してか 今日は天気にも恵まれ、水際に立つ限りでは 水はそこそこ澄んでいる様に思えた。しかし いざエントリーしてみると 濁りは相当なもので、透視度は1m程度。今のところ 彼女に緊張の色は見えないが、それはただ単に これから直面する 『かつて経験したことの無い 極端な視界不良状態』を認識出来ないだけのこと。

  先ずは 浅瀬で様子見を兼ねた潜降浮上を行った。浮上後、『現状』を認識したらしく 表情が強張っている。とりあえず今日は、BCDに掴まらせての「体験ダイビングスタイル」で潜ることとした。それでも さすがは研究者、観察は怠らない。ガッツがあるので、この先が非常に楽しみ。

  一難去ってまた一難。当然のことながら、彼女は上手くバランスが取れず、中性浮力も不安定。止まって観察していると 自身が巻き上げたヘドロが 後を追うように広がって来るので、たちまち周囲の視界は遮られてしまう、その繰り返し。

    * これ以降、東京辰巳国際水泳場での 中性浮力と超低層遊泳の練習が毎回のお約束となりました。

 

   視界不良潜水でのバディシステム維持には、バディロープが有効です。太さ 5〜6mm、長さ 約2m、グローブ着用での使用となるので コア(芯)の硬い 登山用品店等で取扱っているものが望ましく、両端にストッパーノットは施しません

     * ロープの端に手掛りとなる結び目(瘤)は付けません。ロープに大きな力がかかった場合、例えば バディの吹き上がり(急浮上)等の際には 二次災害(道連れ)を回避するためにも 素早くロープを手放せる状態が望ましい。

   バディはこのロープの両端を、それぞれが左右の手にひと巻きして握る。手を開く時は、結びが解けない様に 拇指でロープを挟む。バディとの間合いを詰めたい時は ロープの端を引き、再び間合いを取りたい時には ロープの元を引く、こうして必要に応じて バディ間のロープの長さを調整する。

 

(夏)

  お台場の水温は、何と28度。とにかく濁っている。水中はほぼ無酸素状態で、水底に生物の姿は見当たらない。カニは皆、水面近くの石の上に避難している。水底には、ホンビノス貝の殻(死骸)が やたら目に付く。水面では、若干の異臭(アンモニア臭)を感じる。

  あまりの視界不良に、バディロープの有り難味を実感する。Mrs.ホンビノスは 水中ライトとバディロープを併せ持つことに慣れていないので、今回は例外的に バディロープを水中ライトのループホルダーに結び付けた。これで少しは負担か減る。

  午後は、船の科学館係留展示船(青函連絡船「羊蹄丸」)船尾にあるポンツーンからのエントリーとなる。水面を見る限りでは、お台場以上の濁りが予想され、潜ると 案の定‥。真夏の日差しが照り返しているにも拘らず、係留船が造り出す日陰に入った途端に、ナイトダイビングの数倍の暗さ。正に 闇夜にカラス状態。2基の強力水中ライトが照らし出す僅かな範囲だけが、ダイバーにとっての全視界だった。

  彼女の光軸は一頃に比べ、かなり安定して来た。プール練習の効果がはっきりと現れている。視界も広くなった様だ。この状況下でも呼吸に目立った変化は無い。移動時 やや後に下がる傾向はあるが、改善が見られる。

 

   極端な視界不良潜水やナイトダイビングでは 各ダイバーが持つ水中ライトの光軸の動きを見れば、その実力がひと目で判る。光軸が安定しない ⇒ 体のバランスをコントロール出来ない = 経験・技量不足 を意味する。また 光軸は、各ダイバーの行動を把握する上でも とても便利だ。各ダイバーの視線や関心が、その光軸上にあるからだ。光軸の不自然な動きは、何らかのトラブルを意味している。

   視界不良潜水に限らず、並行移動(side by side)の出来るバディは極めて稀だ。どうしてもバディは リーダーよりも後に下がる傾向にある。それは、後に下がっていれば リーダーを視界に捉え易いからだ。しかし これを続けている限り、上達は望めない。チームで潜ると、何かに熱中した訳でも無いのに 決まって「私、そんな魚 観ていない」と言うダイバーが必ずいる。視界が狭いのだ。魚は必ずしもダイバーの正面に来てくれる訳ではない。ダイバー自らが首を振り、頭や体を動かし、全球面的な視界を持たねば、千載一遇の好機を見逃すこととなる。いや 魚だけではなく、マイバディを、そして 自身がリーダーをやる時に メンバーをロストすることとなる。

 

(冬)

  Mrs.ホンビノスはこれまでにも 東京辰巳国際水泳場での練習会に度々参加しており、その都度 各種課題を与え、更に それらを複合的に消化して来た。そこに毎回の超視界不良潜水が加味されたのだから、バディシステムに限って言えば 最早 そこら辺のダイブマスターに引けを取らないダイバーになった とも言える。しかし今回のお台場ダイビングは、そんな彼女にとっても強敵だ。水温は、何と10度を下回る。

  彼女の装備は、ジャストサイズとはいえ 5mmのウエット・フルスーツで、しかも上着はボレロタイプ。如何にフードを被ろうとも、如何に気合十分であろうとも、この水温に太刀打ち出来る筈も無い。

  「とにかく寒いよ」 と事前に何度も言い聞かせたのだが、「ダメ元でもいいからドライする」と言って聞かない。とりあえず 無理・我慢をせず、すぐにギブアップを申し出る様にと念を押した。そしてエントリー直後、案の定 彼女はフリーズした。「無理しないで‥」と再度告げたが、意を決してのか 潜降を開始した。しかし 僅か5分でギブアップ。当然の事ながら、2本目はキャンセルとなった。以後 春まで休眠宣言‥。

 

   保温性を重視するのであれば、ウエットスーツやブーツのファスナーは 無い方が良い。手首・足首・足裏は皮下脂肪が極めて少なく、 血管も体表面近くを通っている。加えて ファスナーは水を透すので、その周辺部は常に冷水に晒され 体温は著しく奪われる。ボレロタイプの上着は 内蔵の保温性に劣る。

   今時 ジャストサイズ、手首・足首ファスナー無しのウエットスーツの着方を知っているダイバーは、最早「Red Book」に載る存在となってしまった。

     * はっきり言って ウエットスーツの保温性をあれこれ言うのは、ドライスーツが一般的でなかった過去の考え方。寒さが苦手なダイバーは、ドライスーツを着ましょう。(私は断然、ウエットスーツ派、つまり Red Book組です)

 

 

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