『藤の花 (海藤花 かいとうげ)』

 

 

  ある夏の終わり。台風の直撃を受けて、ビーチダイビング用に敷設してあったガイドラインの大半(主に砂地用)が吹き飛ばされてしまった。仮設でも良いから 急ぎ復旧しなければならないのだが、週末まで あまり時間が無い。ロープの準備は簡単だが、重石を運ぶには人手もリフティングバッグも足りない。そこで 放置されていた空のポリタンクを使うことにした。これなら 自重が軽いので海中での運搬もし易く(但し 水の抵抗は大きいが)、ロープの敷設場所に埋めて砂を詰めれば 重石の出来上がり。土嚢袋と違って、うねりによって起こる ロープとの擦れから来る破れの心配も無い。

 

  何とか仮設を終えて 急場を凌いだ。その後 時間をかけて、12.5m置きに100kg用リフティングバッグを使って重石を運んではロープに結んだ。時が経ち   ポリタンクにびっしりとフジツボが付いた頃、ふと目をやると その周辺には貝殻が散乱し、直径8mm程の開口部の奥に 丸くて黄色いものが見えた。蛸の眼だった。

    * 蛸には 獲物を捕らえると 棲み処まで持ち帰り、そこで食した後 殻は外に捨てる習性がある。これが元で ダイバーに容易く発見され、「一方的な遊び相手」にされてしまう。

  自然界における蛸の住環境は、結構厳しい。新築物件は皆無に等しく、既存物件も砂に埋まり易い場所が多い。その点 ポリタンクの開口部は砂面よりも高い位置にあるので 砂流入の心配も少なく、また その大きさは 外敵からの備えにも適している。広さは 内部の砂をかき出せば、間取りは自由自在。「ダイバーの遊び相手」というマイナス面を考慮しても、これはなかなかの高物件。

 

  この蛸と時々「遊ぶ」ことになったのだが、ある日を境に遊んでくれなくなった。どうしたものかと 中を覘いて見ると、天井部分から小さな白いものが無数に垂れ下がっていた。卵だった。「藤の花」 「海藤花(かいとうげ)」とも呼ばれていると、後に聞いた。見事な例えだと感心した。「遊び」は「観察」に替わった。

  ポリタンクの中にあって、蛸は 無数の卵に向かって絶えず海水を吹きかけている。孵化するまで 蛸は何も食べないそうだ。実際 ポリタンク周辺に散乱する貝殻の表面には どれも薄らと藻が付いており、新しいものは ひとつとして見当たらない。

 

  卵の存在に気付いてから およそ4週間後のある日の午後。その日は濁りが強く、辺りはまるで夕暮れの様。最終ダイブの帰り際、いつもの様にポリタンクに目をやると、開口部から何かが外へと掃き出されている。中に溜まった砂かと思って近づくと、孵化したばかりの蛸の赤ちゃんだった。まさか目にすることが出来るとは思っていいなかったので、とても嬉しい。その大きさは2mm程で ほぼ透明だが、紛れも無く 蛸の形をしている。

  Closedの時間が迫っていたので あまり長居も出来ず、そうそうに帰路に着いたが、このことだけでも 今回のダイビングは ☆☆☆。

 

  数日後 ポリタンクから然程離れていない砂地に、体のあちこちを齧られた蛸の骸が横たわっていた。だが 命は確実に受け継がれた。

 

 

ご意見・ご質問等ございましたら、下記アドレスまでお送り下さい。

            scuba@piston-diaphragm.com  (異論、反論、歓迎します☆◎)